マイペンライたいとる.gif (17155 バイト)

第4号 (1503 バイト)

2000年だ!さあー、一体何がおこるのか?楽しみじゃありませんか。
記念すべき第5号もなんとか年内に間にあったということで、2000年は「マイペン」を世の中に広めたいと思います。まずは、今目にされているアナタ!感想、要望、意見なんでもイイですからゲストブックに書き込んで下さい。


画面ライダー連載中!画面ライダー連載中!画面ライダー連載中!   


「夕焼けイノキスト・宮脇まさはるのプロレス郷愁思考のすすめ」
          甦れ!プロレス最強説・・・・の巻    ▼宮脇正治


 西暦千年代も、本当にあと僅か。二千年問題かまびすしい昨今、プロレスにとっては今のところ、あまり良い世紀末とは言えないようだ。
 マット界自体は、けっこう繁栄している。国内では数えきれないほどの団体・レスラー達が、各自の持ち味を生かして様々な色の花を咲かせ、米国でもWWFのエンターテイメント型プロレスが確立されるなど、新しいスタイルの楽しみ方が世界的に波及し、まずまずの活況を呈している。
 しかし・・他競技との抗争では、プロレス最強説は、完全に否定された。プロレス代表の冠を着せられた高田延彦が、97年、98年、グレイシー柔術のヒクソン・グレイシーに二度共、1ラウンドで完敗。99年は闘魂プロレスの代表格・橋本真也が、UFOの小川直也にこれまた連敗。
 明るい材料もある。98年、アレクサンダー大塚が、ヒクソンも恐れるというマルコ・ファスに殴り勝ち、98年から99年にかけては桜庭和志が、グレイシー一族を含めた数人の他競技強豪に、勝ち続けている。この他にも、色んなレスラーが色んな場で他競技と対戦して、勝ったり、負けたりしている。そう。勝ったり負けたり、という状況なのだ、今は。
 少し前までは、プロレスは最強の格闘技、とされていた。と言っても、それはプロレスの側から世間に対して言い続けてきただけの話。プロレスの性質上、その存続・発展のためには、「プロレス最強説」は不可欠だったのだ。他競技との対戦においても、常に勝ち続ける必要があった。
例えば、猪木は、76年のルスカ戦から「格闘技世界一決定戦」あるいは「格闘技世界ヘビー級選手権」と銘打って、異種格闘技戦を世界的レベルで展開し、98年に引退するまで断続的に、計20人近い難敵とあいまみえることで、プロレス最強を体現した。
 だが社会一般的に「格闘技世界一」とか「プロレス最強」というのは、多少極端で乱暴な話。これらの主張は、常に蔑視と疑問視の対象であったプロレスが、堂々と生き抜いてゆくための、いわば苦肉の策だった。
 やがて時代は短時間で大きく変わった。情報の氾濫。価値観の多様化。ドライ思考への傾倒。プロレス自体も変化した。そして、マット界が世間に対して、世界一、最強などと主張し続ける必要性も、次第に薄れてきた。と同時期に、他競技の側から、過去プロレスが主張してきたことを逆手に取られ、今、逆襲されているとも言える現実が、重くのしかかる。
 ここで負けてはならんのだ。
 様々な種目の選手同士が、種目を越えて闘い、勝ったり負けたり・・。そうしてプロレスも、他の格闘技と同一線上に並ぶ。それが本来の姿、それで良し、とする向きもある。しかし、郷愁論の立場からプロレスに肩入れする私としては、プロレスというものは、私達常人とはかけ離れた怪物・超人達が展開する、あらゆる格闘技の集大成であり、つかみどころのない恐ろしくも不思議な世界であり、やはり最強の格闘技なのだ、と言い張り続ける姿勢を、マット界もファンも失ってほしくないのだ。

 さて、明けて西暦二千年。春には、船木誠勝が、プロレスの天敵・ヒクソン・グレイシーと対戦するという。
 私は、船木というレスラーをあまり知らない。秒殺の格闘技系で、どちらかといえばプロレスという言葉やイメージが嫌いな、スマートなスポーツ選手、という程度の印象だった。だが過日、週刊誌に載ったコメント、「プロレス最強説を壊したヒクソンを倒すことで、俺のやり続けてきたプロレスに恩返しをしたい」これを聞き、船木はプロレスという分野を背負い、レスラー生命を賭けて闘う覚悟あり、と見た。元を正せば、彼も猪木の遺伝子。想いを託したい。
 21世紀まであと1年。今世紀最後の年に、プロレス最強神話が復興するまで、私にとってのプロレス二千年問題は、解決しないのだ。


【宮脇正治:みやわき まさはる】1960年10月生まれ。
・・・・ちょっとひと言・・猪木のデビューと共に生まれ、猪木の活躍と共に人生を送り、千年代最後の夕焼けと二千年代最初の夕焼けを見て不惑の年を迎えられる、この時期にこうして執筆できることを本当に嬉しく思います。皆さん来年もどうぞよろしく。

 


「〜いのちのエネルギー「気」の不思議〜」
                 芸能人と気の関係          ▼柏原 誠


さてさていきなり難解なネタに入ったような感のあるコラムだが、まぁ、気楽に呼んで頂きたい。今回は僕の仕事でお付き合いさせて頂いている芸能人を取り上げて、「気」との関係に触れたいと思う。

僕が今一緒に仕事をしている浪速高校時代の同級生・和泉 修は実はすごい気の流れが良い人だ。彼のクルマに同乗すると、いつも決まって彼の側の窓が曇るのである。「エアコンが効いてないのかなぁ」程度にしか感じなかった僕だが、実は彼の「気」で窓が曇ってしまうのだ。西野先生がタクシーに乗った時に良くこんな現象が起こると聞くが、実際に見るとビックリである。
彼はボクシングを通じて常に人の視線を浴びる「場」を選んできた。人間の気は思った方向、つまり目で見た方向に飛びやすいらしい。
つまり人の視線を集める人は必然的に人のエネルギーをもらえるということになる。そしてもうひとつが呼吸の仕方。格闘技という世界は効率の良いパンチを繰り出すため、つまり体重の乗った(生きた)パンチにするためには息を止めたり、または吐いたりして本能的に気を「下げている」。下げているというのは、これはもう反対語でお分かり頂けると思うが「あがる」の逆。つまり気は足元へ下ろすと落ち着き、逆に上げると不安定になるのだ。
「板付き」という舞台用語はこういう役者の状態を端的に表していて、興味深いことである。

ARBのライブで凌が昔から良く言う言葉「ライブは客とバンドがフィフティ・フィフティで成り立つもんだ。だからみんなもパワーを返して下さい!」・・・お笑いの舞台を手伝う僕としては、修や一緒に舞台に出る芸人さん達は「笑い」を通じてオーディエンスからの「気」を受けているのだと思う。常にTVに出続けている芸能人で顔色が悪い(メイクしたら別やけど)人が少ないのはその影響ではないだろうか。だから「人気」というのだ。(と、ひとり納得)
「気」というものを実際に学ぶようになってもう5年が経つが、カラダの循環の良し悪しが、そのまま仕事に出ることもある。なかなかまとまらない商談もこちらから柔らかい「気」を送れば、自然と和やかな空気になって、不思議とまとまったりするのだ。

人は目に見えないものに対しては畏怖したりする事がある。しかし「気」というのは本来人間が生まれながらに持つ「能力」なのだ。そしてそれを元通りにするカギは「呼吸」にあったとは、ちょっとビックリな話なのではないだろうか・・。
そういえば担当している「GET!」の収録で修と打合せしていた時、向かい合わせに座っていると汗ばんでしまって困った事がある。
知らず知らずのうちに「気」が交流していたのだろう。実に心地よい空気であった・・・。

さて次回からは僕の趣味的領域に突入だあっ!・・・


【柏原   誠:かしはらまこと】1963年2月生まれ。赤井英和・和泉 修を輩出した浪速高校を卒業、佛教大学で放送局に所属する。卒業後12年間のサラリーマン生活を経て独立、87年に設立したグループ、ノクターン・クラブを復活。和泉 修の誘いでテレビ番組の構成作家とうめだ花月シアターでの舞台演出を手伝う。

 


■『STARWARS SAGA GOES ON』...VOL.5
                                    ▼重藤貴志


第5回目にして、『STARWARS SAGA』が持つ大きな問題点を論じることになる。
今回から、《JEDI》に対する真の脅威、この一点に的を絞って解説してゆくのだから。

後の銀河帝国皇帝パルパティンと同一人物である可能性が高いダース・シディアス、ダース・モゥル、ダース・ヴェイダーについて、最初に論じてゆこう。
何故ならば、彼等こそが真の脅威の象徴的人物であるためである。
彼等は皆、“シスの暗黒卿(Dark Lord Of The Sith)”という称号で呼ばれ、非常に周囲から畏れられている。その理由は、彼等もまた《JEDI》と同様の能力を持ち、自己の目的遂行のためならば、《FORCE》を悪用することを厭わないからである。つまり、冷酷非道な《JEDI》だと考えて良い。その存在自体が畏れられているのだ。“ダース(Darth)”という名を有する男たちはまた、例外なく《JEDI》を憎んだ。《JEDI》と“シスの暗黒卿”の歴史は、血塗られた光と影の闘争と呼んで良いだろう。
“ジェダイ・ホロクロン(Jedi Holocron)”では、ルーク・スカイウォーカーの誕生年を基準として約14000年前に始まったとされている。

約14000年前...
創設以来、一枚岩のような堅い結束を誇っていた《ジェダイ騎士団》が史上初の大分裂の危機に見舞われた。憎悪と破壊によってもたらされる力こそが《FORCE》の真理だと考え、《FORCE》の暗黒面に身を委ねた“ダーク・ジェダイ (Dark Jedi) ”により、<100年戦争 (A Century-long War) >が勃発した。この闘いは《ジェダイ騎士団》の勝利に終わったが、敗残者であるダーク・ジェダイの一派は、高次空間を通って銀河未知領域へと逃走した。彼等は逃走の果てにシス星系に辿り着き、《FORCE》によって、シスの未開文明諸種族に崇拝され、“シス帝国 (Sith Empire) ”が建国されることになる。
この <100年戦争 (A Century - long War) >以降、約9000年の間、銀河共和国史からダーク・ジェダイの存在は、次第に忘れられていったのだが、敗れた側は忘れなかった。

それから9000年後、シス帝国の支配者たる“シスの暗黒卿”であったマルカ・ラグノス(Marka Ragnos)が崩御し、空位となった暗黒卿位を巡り、有力な“シス卿(Sith Load)”であるルド・クレッシュ(Ludo Kressh)と、危険な野望を持つナガ・サドゥ(Naga Sadow)の確執が表面化した。政敵を次々と権謀術数により葬ったナガ・サドゥは、全銀河支配を目標とした“偉大なる計画 (Grand Plan) ”を始動させた。
これが、< 高次空間大戦(Great Hyperspace War) >と呼ばれる戦いである。

シス帝国軍は銀河共和国へ大侵攻を開始したが、《FORCE》の乱れにより、シス帝国の蠢動を察知し、この事態に備えていたジェダイ騎士オダン=アール(Odan-Urr)らに阻まれ、敗退した。ナガ・サドゥの“偉大なる計画”は、ジェダイにより潰えたのである。
しかし、敗れたナガ・サドゥとその一派は、追撃をかわし、ヤヴィン第4衛星(Yavin.4)
へ撤退し、“シスの奥義(Seacret Of The Sith) ”を隠匿したとされる。

それから、さらに1000年後。
イグザァ・クン(EXar kun)とウリック・クェル=ドロマ(Ulic Qel - Droma) という2人のシスの暗黒卿により、< シス戦争(The Sith War) >が勃発する。多大なる犠牲を払いながらも、《ジェダイ騎士団》側の勝利に終わり、イグザァ・クンの魂は封印される。強力かつ禍々しい暗黒面のフォースの暴走により、クロン星団が壊滅に追い込まれる。

そして2000年後。
「たとえ、フォースの暗黒面であっても、それは力であり、否定すべきではない」という思想を持つ1人の優秀なジェダイ騎士(公式記録には氏名が残っていないため、不詳)が《ジェダイ騎士団》を離れ、先の大戦で滅亡した“シス( Sith ) ”を名乗り、ジェダイの対極にあるカルトを形成する。彼等の目的は、《ジェダイ騎士団》への復讐と、銀河共和国に代わって全銀河を掌握することだったが、互いを信頼しないシスの騎士たちは仲間同士で決闘を繰り返し、その数は急速に減少の一途を辿っていった。数少ない生存者たちも、ダース・ベイン(Darth Bein)以外の全員が、ジェダイによって数週間で滅ぼされた。
ダース・べインは、愚かな過ちを繰り返さぬため、そして、ジェダイに復讐するために、シスの師弟体制を確立する。以後、“シスの暗黒卿(Dark Lord Of The Sith)”は、師と弟子の2人のみとなり、歴史の闇のなかで復讐の刻を待ち続けることになった。

さらに、1000年後。
銀河共和国元老院は、ジェダイ評議会からシスの滅亡報告を受理したことになっている。『EPISODE.1 -THE PHANTOM MENACE-』の時代設定は、さらに、この1000年後である...。(クァイ・ガン=ジンの報告を聞いて、ジェダイ評議会が驚いたのは、そのためである。
 最初、誰もが耳を疑ったのも、シスの滅亡から1000年が経過していたからであった)

このような深い歴史的経緯を理解して初めて、『EPISODE.1 -THE PHANTOM MENACE-』で、ダース・モゥルが呟く「At last,We will have revenge...(終に我らの復讐の刻)」という台詞が生きてくるのである。ダース・モゥルは、1000年間という長き年月に渡って、ジェダイと銀河共和国が油断し慢心するのを待っていたシスの教義に忠実だったのだ。クァイ・ガン=ジンのような達人でさえ、彼の剣技には勝つことが出来ず、その弟子たるオビ・ワン=ケノビでさえ、軽くあしらわれ、生命の危機にさらされたのだったが...。

今回は、ここまでにしておこう。
次回は、彼等が象徴する真の脅威そのものについてお送りする。


追伸

オフィシャル・ノベル最新刊「スター・ウォーズ -新たなる脅威-」で亡くなった
我らが敬愛するチューバッカの冥福を御祈りする。
相棒を失ったハン・ソロの痛々しい姿には、涙を禁じ得ないものがあった...。
是非、御一読をお薦めしたい。2000年になる前にいかがでしょうか?


【重藤貴志:しげとう たかし】1975年3月生まれ。東京出身。DJをめざし放送局に入る。卒業後FM京都のADなどの放送現場を経験。音楽・芸術に造詣が深い成長株のクリエーター。佛大時代に同期だった小林寛幸と共に次世代メディアであるインターネット放送局「N−mix」を設立・運営する。

 

 


■『世紀末映画考』 No.005
                                    ▼増田達也


1999年も終わりを告げ、2000年を迎えようとしている。(これを読まれる方は既に迎えてると思いますが)ということで、自分なりにこれまでの映画の見方を辿ってみたい。
皆さんは最初に自分が観た映画を、憶えておいでであろうか?
僕の記憶がたしかならば、人生で最初に観た映画は、「ゴジラ対キングギドラ」?である。もしかしたら最初ではないかもしれないが、自分の意志で観た映画は確かにこれである。小学校1年生ぐらいの僕は、一人で観に行ったのだ。これは3本立てでやっていて他にも、何か特撮ものをやっていた。

ここから、映画をどんどん観に行った・・・のなら、早熟の映画少年なのだろうが、なんせその頃は北海道に住んでいた関係上、その後小学生の時はほとんど映画館に足を運んでいない。
そして、中学生になっても足繁く映画館に行ってはいない。記憶に残っているのは、ブルース・リーの「死亡遊戯」と「未知との遭遇」「あしたのジョー」等の映画を観に行ったぐらいだ。他にも行っただろうが記憶が定かではない。

その頃は映画は映画館で観るものではなく、テレビで「金曜ロードショウ」や「日曜洋画劇場」を観ることだったのだ。だから外国人もみんな日本語でしゃべってくれるのだ。
そんなこんなで、映画館に本格的に足を運ぶようになったのは、高校に入ってからである。同級生に映画好きの奴が居てそいつとよく映画を観に行ったの憶えている。京都から大阪まで観に行くようになったのもその頃からである。

「タクシードライバー」、「時計仕掛けのオレンジ」もその時に自主上映みたいなかたちで観た。その頃はロードショウよりも隠れた名作みたいな感じで、1週間ぐらいの上映やその日だけみたいな映画を情報誌で探しては大阪に行ったりしていた。京都でも何々上映会といって映画館ではなく、ホールや会館でやってるやつを観に行った。もちろん「スターウォーズ」や「ET」等おさえるところは、きっちり観た。しかし、高校から大学前半にかけては、どちらかというと難解な映画にステイタスみたいなものを感じて、ヨーロッパよりの映画を好んでみていたので単純明快なハリウッド映画を思いっきりバカにしていた。バカにしていたというか「俺はそんな俗な映画じゃ満足しないんだよ!けっ」と斜に構えていたのかもしれない。

しかし評論家連中がほめている巨匠の映画を観に行って、何度退屈やなあ〜と思ったことか。けれどその頃の幼稚な頭しか持ち合わせていない僕は、そんな印象を抱きながらも「いや〜さすが巨匠○○やなあ、あそこのカットはすごい!」だのなんとか言って、こんな難解な映画を俺らは理解してんねんぞと悦に入っていた。
あっ!でもこの歳でまた見直したら良かったりして。映画はその時の状況や年齢で見方がぜんぜん変わるからおもしろい。

大島渚監督にあるインタビュアーが、この映画のメッセージがよくわかったと云うと監督は、「この映画にメッセージはこめていません」と言われた。よく評論家はメッセージ性を求めたがるが、たとえどんなにすばらしいメッセージを盛り込んだところで、その映画が駄作であれば意味ないのである。
逆説的にいうと名作は、観客側がその映画からメッセージを創りあげるのだ。この映画からはこんなメッセージを受け取ったなどと観客がそれぞれに、自分なりの思いをこめられるのがいいのであり、み〜んな同じ印象しか残さないような映画はつまらんではないか。

そういえば、学生の頃はAV(アダルトビデオ)が普及し始めで、僕らはまだ日活ロマンポルノを映画館に観に行っていた。大概3本立てか2本立ての上映でビデオみたいに早送りできず、しっかりストーリーづくりがなされた上でのHシーンを大スクリーンで若い学生やおっさんどもが見入っていたのだ。
ロマンポルノから、メジャーの監督に育った人は結構多い。Hシーンさえ入れときゃ後は監督のやりたいことが結構自由にできるという、若手監督にとってはおいしい現場だったのかもしれない。

そうだ、AVが世の中に浸透してきてから、レンタルビデオ屋が急速に増え始めたのではないか。レンタルビデオのおかげで、見逃した映画や昔の映画、再度見直したい映画を観たいときに自由に観ることが出来るようになり、本来なら出会うことのなかった映画を観られたりもした。一概にレンタルビデオの功罪を量ることはむずかしい。そこまでいくとスクリーンで観るのが映画であり、モニターで観るのはなんなんだ、ということになってしまうしねえ。

映画館に足を運ばなかった時代は、レンタルビデオを返却しては又借りていつも部屋にはビデオテープが転がっており、だんだんビデオ屋にいっても観たい映画がなくなってきた時期があったが(単にその店の品揃えが少なかったという説もあるが)、時間さえ無限にあれば何本でも観たい映画はある。ただ他にも使いたい時間はいくらでもあるし、映画には当たりはずれが有ると言うことだ。
関係ないがクエンティン・タランティーノは元ビデオ屋の店員だったらしく、そこで映画を観まくって脚本を書き始めた。

とにかく、映画にはひとそれぞれの見方があるしこう観なければならないなんて、方程式があるわけじゃない。国が違えば見方もぜんぜん違う。インドなんか紙吹雪は舞うわ、舞台上で踊りやだすわでお祭り騒ぎである。日本でやる奴がいれば、かなりのひんしゅくものだ。けれど、どちらが正しいかはその国の文化であり、押しつけることはできない。欧米ではすばらしい映画じゃ拍手喝采、時にはスタンディング・オベーションまでするし、気に入らない映画にゃブーイングする。う〜ん、静かに観るのも日本人的でいいのか・・・。
まあ、そんなこんなで2000年もすばらしい映画と役者に出会えること期待しつつ、今回は終わりです。


■今回のMASUDAのおすすめ映画(レンタルビデオ)は、
 「さらば青春の光」(単に久々に観たくなったので・・・)です!


【増田達也:ますだ たつや】1964年10月生まれ。佛教大学時代は放送局に所属。イラスト・グラフィックデザイナーとして活躍し、今年独立。ノクターン・クラブのコア・メンバーとして主にWebサイトのデザインを担当する。音楽・映画に詳しく、作品に対してイーヴンな評価を与えられるアーティスト。後述の「画面ライダー」の作画担当。

 


「中年ロッカーの逆襲」
              〜マイ・ギター(パート2)〜           ▼Kei


 また、ギターを手に入れた。今度は今までとは違い、かなり話が込み入っている。
 話は、3年前にさかのぼる。神戸の元町高架下をぼくは歩いていた。ここは、「日本の中のアジア」いろいろ変わった店が立ち並び、例えば、東南アジアの楽器の専門店だとか、大人のおもちゃ屋とか、中古電気屋とか古本屋(置いている本が、風通の古本屋にはちょっと置いていないようなもの多数)とかいった店が、普通の時計屋や服屋なんかと一緒に並んでいたりする、お上品な人には近寄りがたいようなところで、ぼくはとても気に入っている。
 何を探すでもなく、冷やかしだけで時間を過ごしていたのだが、ふと、ある電気屋の片隅にある、一本のギターに目が留まった
「こんなの見たことない!」
 ヘッドのインレイは「グレコ」と書いているので、日本のグレコ社製ギターなのだろうが、形がまず変わっている。それは、イギリスのリッケンバッカー社の330というモデル(ジョージハリスンやフーのピートタウンジェントが使っていた)をコピーしたものなのだが、どうも、少し形が違う。先っぽの方が明らかに細くなっている。それにピックアップ(弦振動を拾うためのマイク)も全然違う。おまけに、リッケンバッカーのどのギターにもつかないようなトレモロアーム(ギブソン社のセミアコについているようなやつ)までついている。「こんなの、見たことない!」
 前々回でも述べたが、ぼくはギターがとても好きで、しかも60年〜70年代ごろのB級ギター(テスコとか、グヤトーンなどが代表的)や、レトロなギターがことのほか好きで、雑誌の広告や楽器屋の店先で、かなりの種類のギターを見て来たわけだが、こんなギターは見たことなかった。だいたい、グレコ社はギブソンやリッケン、フェンダーのギターを完ぺきにコピーしたモデルを売っていた。だから、こんな中途半端なコピーもどきのギターを作っていること自体不思議だった。
 けれど、ぼくが見たことないのだから日本中で持っている奴はもう、ほとんどいないだろう。そう思うととてもほしくなった。もともとぼくのフェイバリット(お気に入り)ギタリスのほとんど(フーのピート、ジャムのポール・ウェラー、スミスのジョニー・マーなどなど)がリッケンギターの愛用者で、ぼくも「いつかはリッケン」と思っていた。
 ギターの状態はよくなかった。音は何とか鳴るものの、電気屋のアンプなのでいい音なのかどうなのかわからない。それに、金属のパーツはさびだらけで、しかも持ち運ぶケースすらない。価格は2万円。状態のことを考えると、1万円がいいとこだが、店主は頑として値引きには応じなかった。でも、ほれた弱みでとうとう買ってしまった。元町の駅から、和歌山まで、ナイロン袋に包まれたギターを抱えて恥ずかしい思いをしたのが忘れられない。
 さて、持ち帰ってパーツを取り外し、サビ取りをつけてていねいに磨く。なんとか見られる状態になった。アンプにつないでみる。音は鳴る。しかし、とてもリッケンの音じゃない。ノイズも多い。ルックスは気に入ったが、気持ちよく演奏できる音ではない。せっかく出会えた恋人は、壁を飾るディスプレイと成り果てたのであった。

 それから2年が過ぎた。バンド活動も軌道に乗り始めた。そして、今持っているギターでは出せない、別の音がほしくなって新しいギターの購入を考え始めていた。あれこれ迷っているうちにふと、壁の神戸オンナに目が留まった。「まてよ、こいつのパーツを交換したら・・・」もともとネックの握りは気に入っていた。そうだ、弦を支えるブリッジとチューニングをするためのペグを精度の高いやつに代え、ピックアップ(これ次第で音はかなり変わる)を代えたらどうだろう。楽器屋に相談し、リペアー(修理・パーツ交換)を依頼する。いろいろなトラブルもあり、できあがってくるまで2ヶ月半も待った。そして、とうとう戻ってきた。ピックアップはリッケン製だ。アンプにつないで音を出す。・・・・・いい!!
 正直、こんなにいい音になるとは思ってもいなかった。しかも、求めていた、モズライトとジャズマスターのちょうど中間のような音だ。これ一本でライブをやれる。壁のディスプレイだった変わりもののギターは、ルックス、音ともに、今や、ぼくの一番のお気に入りギターになった。



【Kei:本名 坂本桂】ブリティッシュ・ロックの大御所「THE WHO」デビューの1964年に生まれる。高校時代「SMO 」/「ストーン・ギャザーズ・ノー・モス」というストーンズ、ピストルズ、フーなどのコピーバンドのVo.を経験後、1982年に「GAOSS」を結成。オリジナル曲を中心に京都の「拾得」「磔々」大阪「エッグプラント」等で演奏活動を行うが1987年に解散。その後10年のブランクを経てBitter・Tasteを結成。

 


「90年代最後のグランプリ〜有馬記念〜」
                                     ▼寺西裕一



 まさか2強で決着するとは思わなかった。それくらい90年代最後のグランプリは2強に死角ありと思えた。まず、1番人気を集めたグラスワンダー。秋緒戦の毎日王冠を使った後、順調さを欠きジャパンカップ出走を見送った。1週前のリハーサルでも完全復活と感じるほどの動きには見えなかった。そして、スペシャルウイーク。京都大賞典惨敗の後、天皇賞は馬体重をマイナス16キロ絞ってレコード勝ち、ジャパンカップはあのエルコンドルパサーを凱旋門賞で破ったモンジューらを寄せ付けず快勝。力は誰もが認めるが激走の疲れが心配な秋4走目であった。
 しかもこの2頭には不利なデータもあった。グラスワンダーは昨年4歳で有馬記念を制したが、4歳で頂点に立った馬の翌5歳での成績は芳しくない。あのオグリキャップも4歳で優勝したが、スーパークリークと5歳2強を形成した翌年、イナリワンに屈して5着。その後もナリタブライアン、マヤノトップガンなどの強豪が4歳でグランプリを制したが、5歳ではやはり2着にも入っていない。一方のスペシャルウイーク。ジャパンカップから有馬記念のローテーションは近年、トウカイテイオー、レガシーワールドのジャパンカップ優勝組をはじめ、2着組のオグリキャップ、ヒシアマゾン、エアグルーブ、加えて4着に終わったメジロマックイーンもあのダイユウサクに足元をすくわれて優勝できなかったのである。
 そこで、私は何を狙ったのか。まずは4歳馬である。過去のデータからも4歳馬の活躍は顕著であるし、今年の4歳馬のレベルはかなり高い。ましてや、クラシックレースを分け合った3強の内の2頭が出てくるのである。特に有馬記念と相性のいい菊花賞馬のナリタトップロード、有馬と同じ中山の舞台で皐月賞を制したテイエムオペラオー。私は京都大賞典で古馬と手合わせをし、菊花賞のゴール前は勝ち馬よりいい脚を使ったテイエムオペラオーに、2年前のシルクジャスティスをダブらせた。また、有馬記念で4歳馬が活躍する一因に負担重量の違いがある。4歳55キロ、5歳57キロ、6歳以上56キロ、牝馬はそれらからマイナス2キロ。つまり、5歳の2強は一番重い重量で戦わなければいけない。1キロ1馬身差として、4歳とは2馬身、6歳以上とは1馬身ハンデがあることになる。そこで、去年、今年と2強より重いか、もしくは、同じ斤量で接戦を演じてきたメジロブライトをもう一方の狙いとした。コース相性の良さ、2400以上の距離での強さも加味すれば十分に2強を負かすだけの力はあるはずだ。いや・・・だった。
 結果は、残り200付近で抜け出したグラスワンダーを、ゴール前捕まえかけたスペシャルウイーク。微妙な写真判定の結果、グラスワンダーが有馬記念連覇を果たし、宝塚記念に続きスペシャルウイークとの2強対決を制した。しかし、共に負けてたまるかという意地がぶつかり合った見ごたえのあるいいレースだった。実は過去、ジャパンカップ、有馬記念を連覇し、2年連続でグランプリを優勝している馬がいた。そう、皇帝シンボリルドルフである。2頭はゴール前、あのルドルフとも並んだのだ。私の馬券はゴミ箱に直行となったが(ワイドならオペラオー3着だから獲れたことになるが、G1にワイドは私の馬券道に反する)、歴史的なレースをみることができたと自分を慰めている。ところで、年度代表馬はどっちになると思います?



【寺西裕一:てらにし ゆういち】1965年生まれ。佛教大学時代は放送局アナウンス室に所属。卒業後、KBS京都を経てフリーのアナウンサーとして活躍。主にスポーツ実況の分野(競馬・競艇・野球・サッカー等)で実力を発揮している。自立心旺盛でしっかりした考えを持つ反面、方向音痴という憎めない面を持つ実力派アナウンサー。


 

■編集後記

ふふふ・・・。我らノクターン・クラブの底力、年内に第5号を発行しましたぜ皆の衆!。

ま、いろいろ焦ってましたが、豪華執筆陣の不眠不休の努力か、年末のこのクソ
忙しい折に、
ムリを言って書き上げて頂き、ホンマに感謝でございます。

ただ、今回の原稿には規定の1,200字を大きく逸脱した豪華版《JEDI》を作って
くれたシゲトー氏には
ペナルティとしてミヤワキ氏に依頼して中西 学の伝家の宝刀、
アルゼンチンバックブリーカー5連発を
編集部からのお年玉として進呈したいと思います(笑)

さて来年は2000年、みなさま良いお年をお迎え下さいませ。


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問いませんが、原稿は日本語でお願いします。お問い合せは下記編集まで!


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■次回の予告:2000年1月末刊予定!?(新年第1弾!)■
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編集:柏原 誠 mailto:kashihara@nocturne-jp.com
    増田達也 mailto:masudaya@fa.mbn.or.jp
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許可無く転載することを禁じます。