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おまたしました!マイペンライの第3号、なんとかできました。若干予定より遅れましたが、ライター陣の頑張りにより今回も充実した内容でお送りしますので、ぜひ読後の感想をゲストブックにのこして我々を勇気づけてやって下さい。
それではごゆっくり、堪能して下さい!

 


「夕焼けイノキスト・宮脇まさはるのプロレス郷愁思考のすすめ」
          いつ何どき、何度でも・・・の巻    ▼宮脇正治


 先日、娘らの運動会があった。私もワクワクしながら当日を迎え、秋空のもと楽しく過ごした。ラジオ体操で始まり、競技・演技が続く中、あちこちから拍手、歓声、笑い声。終日なごやかムードの、昔から人々が慣れ親しんできた家族・地域団らんの風景である。だが、私達が子供の頃のそれと比べ大きく違うのは、ほとんどの家族がビデオカメラで撮影していた、ということだ。ビデオテープに残しておけば、当然ありのままの姿がいつまでも残り、いつでも好きな時に楽しめる。時が経てば経つほど値打ちが出る。プログラムの進行と共に撮り易い場所を求め、右往左往する親達の走行距離は、ひょっとしてこの日の子供達以上だったかも。かく言う私もムービー片手に息を切らしていた。ま、これも今様風物詩、楽しみのひとつなのだが、撮影自体に気を取られて、どうも肉眼でじっくり観れないもどかしさが残る。娘らの姿を、心のシャッターに焼き付けることができないのだ。
 心でシャッターを切り、脳裏に焼き付ける・・・そして結んだ像は、時間と共に微妙に変化してゆく。これは心のカメラの面白いところで、人は感性で現像するから、事実・実際とはひと味違った影像になる。そしてその影像は、時の移ろいと共に変ってゆく。思い出は美化される。

思うにプロレスなどは、時の経過に伴う事実の美化・影像化という人間の能力を大いに利用し、永く生き続けてきた分野なのではないか。特に初期、力道山やオルテガやルー・テーズらを観た人たちは、きっと強烈な印象を脳裏に焼き付け、年月と共に彼等を伝説化し、神話にまで高めたのだろう。
 それが現在、ファンはテレビ中継を録画して、いつ何どき、何度でも見ることができるし、大試合のビデオソフトも、大抵のものが店頭に並ぶ。これはレスラー側にとって、良いことなのか悪いことなのか・・・。例えば、かなり以前に観た試合で強い感動を受けたが、思い出すたびに美化されるのだろう、たまたま手に入れたその試合のビデオを見たら、「なんだ?こんなもんだった?」 と肩透かしを喰うことがある。逆に、イメージが膨らんだ後でも、何度ものビデオ再生に耐え得る試合もあるし、そんなプロレスは、やはり異彩を放っている。
 異彩を放つプロレス・・・これがどんな試合かは、ファンそれぞれの嗜好によって違ってくるが、数はそう多くないだろう。だが、それらの中でも、数年間に何度かの再生に耐えられる、というレベルではなく、10年、20年、それ以上の歳月にわたってファンの凝視に耐え得るプロレス、となってくると、間違いなくそのプロレスは、異彩を放ちつつも「影を描いている」はずだ。特別な求心力をもっている、と言っても良い。
 「週刊プロレス」という雑誌に興味深い記述があった。それは、アントニオ猪木に心酔する石川雄規というプロレスラーがおり、彼は、油絵を習っているが、あるレッスンの日に猪木の試合のビデオを、油絵の先生に見せた。その先生は高齢の女性で、プロレスなど観たことなかったが、ビデオを見終わるなり、「この方は、影を描いておられる。動きの殆どが影ですね」と言ったという、そんな話だったと記憶している。では、この影を描くプロレス、特別な求心力をもつプロレスとは一体、どんなプロレスなのか?
 去る10月11日、東京ドームで行われた近来ない大一番、小川直也VS橋本真也。この死闘を超えた「闘魂伝承マッチ」を反対例にとりながら、考えていこうと思う。


【宮脇正治:みやわき まさはる】1960年10月生まれ。佛教大学で放送局とプロレス研究会に所属。アマチュアプロレスJWAリングアナを経て現在、事務局スタッフ。
プロレスファン歴30余年。自称、下町に潜む静かなイノキスト。


「Rockは死なない 〜ARBに「惚れた」男 その2〜」
                                                 ▼柏原 誠


僕とARBとの出会い〜後編〜

さて、前回の僕とARBとの出会いは「生江有二」氏の本を巡り合わせてくれた事まで。今回はその続きの話・・・。
実は椎間板ヘルニアの初期症状−腰の鈍痛−に悩まされていた僕は「西野流呼吸法」の門を叩くことになり、結果3ヶ月の稽古で腰痛がほぼ完全に治り、それどころか以前より増して元気になったのである。人間が本来持つ自然治癒力や「生命エネルギー」のパワーなど、「気」の世界の奥深さをカラダ全体で感じることで、僕自身が忘れかけていた「何か」を取り戻すことができるような、そんな気がしたのを覚えている。

西野流呼吸法についてはいずれ別項で書きたいと思うが、完全にカラダのコンデイションを元に戻すことができた僕は、あの大震災に感じたこと「このままでいいのか?」という自身への問いに答えを出す時期が来たことを悟った。当時の僕は激務というよりも管理職として「部長」のポジションにあり、どちらかといえば「監督」のようなポジションだったので比較的楽ができた。言ってしまえば部下の売上げを管理して、利益が出るように経費を絞る・・・そんな仕事だった。たまには部下に一杯飲ませてヤル気をあおり、四半期には数字合わせの為の「棚卸し」・・・上司(といってもこの頃の僕の上司は役員だけだが)のエエカゲンさ。そんな中で失われてゆく「クリエイティブをやりたい自分」・・・。

考えた結果、僕はその会社に在籍する理由が、僕の中で完全に無くなった・・・。
そして97年10月1日、次の人生へのスタートを切ったのである。

98年1月の大阪の空は暖かかったように記憶している。梅田ヒートビート。「深川ロックショウ」のリーダー深川君と共に足を急ぐ。7年前に聴いた、あのバスドラの連打「Boys & Girls」。ひたすらジャンピングを続ける「ウイスキー&ウォッカ」。そしてソウルバラード「魂こがして」・・・ARBはついに復活した。

いつぞやの特番で凌は言った「34歳からの転職でしょう。簡単に(歌には)戻れない」。・・そうや。俺が会社辞めたのも34や・・思わず呟いた。決心した時ARBの復活はウワサも何もかも僕の耳には届いていなかった。そして次の闘いを決意した時、凌はARBと共に僕の前に現れた・・・。

復活ライブに思いを馳せる時、ARBの復活は時代が呼んだ「必然」だったのだと僕は思う。そして夢を叶えたい、自由に生きたいと思う限り、「必然」はこの文章を読んでいるあなたの前にも現れるのだ。たかがひとつのロックバンドと思うなかれ。人のエネルギーが集中すると、違うベクトルが必ず生まれるのだから・・・

【柏原  誠:かしはらまこと】1963年2月生まれ。赤井英和・和泉 修を輩出した浪速高校を卒業、佛教大学で放送局に所属する。卒業後12年間のサラリーマン生活を経て独立、87年に設立したグループ、ノクターン・クラブを復活。和泉 修の誘いでテレビ番組の構成作家とうめだ花月シアターでの舞台演出を手伝う。

 


■『STARWARS SAGA GOES ON』...VOL.3
                                    ▼重藤貴志


■『STARWARS SAGA GOES ON』...VOL.3

前回の予告通り、今回は『STARWARS SAGA』のなかでも重要な位置づけにある《JEDI》について解説してみたい。

そもそも《JEDI》とは、いったい何者なのだろうか。
その名前は全銀河に普く知られており、その認知のされ方は、我々の世界でいうところの
“超能力者”や“魔法使い”に近い存在だと考えて、決して間違いではない。

《JEDI》の歴史は極めて古く、残存している記録によれば、『EPISODE.4 -A NEW HOPE-』
を基準年として、およそ25000年頃に、その名前が公式年表に記述された最初だとされる
。つまり、歴史の表舞台に登場したのは、《銀河共和国(Galactic Republic)》の成立と同時ということになる。では、それ以前の彼等は、どのような集団だったのだろうか。

元来、《JEDI》とは、銀河を結合する不可思議な力である《FORCE》を感じることで真理
を探究する、種族を超えた哲学的集団であり、人々からは姿を隠していたとされている。
長きにわたって《FORCE》を研究してきた彼等は、《FORCE》によって保たれる銀河系の
恒久的な平和を願い、自らが平和の番人となることにより、理想を実現しようとした。
《銀河共和国(Galactic Republic)》の守護者として《JEDI Order》が創設される。
これが日本語で云う《ジェダイ騎士団》である。

彼等は、柔軟な思考力と鋭い直感力、強靱な肉体と信じられない反射神経を持ち、幼い頃からの過酷な修行により、それが極限まで高められた高潔な騎士である。
また、彼等が民衆から絶大な尊敬を受け、悪人から憎悪される最大の理由は、一人一人が厳格な行動規範である《JEDI CODE》に乗っ取って行動しており、決して私利私欲で動かず、全てが平和のために無償で動いている点が挙げられる。
各々が判断に困るような場合や、一人の騎士の手に余るような問題が勃発した場合は、
12人の高徳な騎士たちから構成される《JEDI COUNCIL》が合議により問題を処理する。

《JEDI》は、その任務を遂行するため、一人一人が自衛している。
彼等の武器は唯一にして無二、ジェダイがジェダイたる証であり、オビ=ワン・ケノビをして「全銀河で最も洗練された武具」と言わしめたライトセイバーである。
高出力のレーザー・ビームの刃を持つこの光剣は、修行を終えた《JEDI》が所持した場合、恐るべき威力をいかんなく発揮する。
その常人離れした反射神経で、彼等は至近距離からのブラスターの光弾でさえも平然と跳ね返し、特殊合金でコーティングされた戦艦の外殻でさえも一閃するのである。

まだまだ書かなければならない事柄があるのだが、紙幅の都合上、次回に廻さざるを得ない。しばらくは《JEDI》について書かなければならないだろう(笑)。

去る11月1日に発売された小説「スターウォーズ - 過去の亡霊 - 」上下巻を読みつつ、今回はお別れです。

フォースとともにあらんことを。

【重藤貴志:しげとう たかし】1975年3月生まれ。東京出身。DJをめざし放送局に入る。卒業後FM京都のADなどの放送現場を経験。音楽・芸術に造詣が深い成長株のクリエーター。佛大時代に同期だった小林寛幸と共に次世代メディアであるインターネット放送局「N−mix」を設立・運営する。


■『世紀末映画考』 No.003
                                    ▼増田達也


本編が終わり、エンディングロールが流れる。
ここでいきなり、喋り始める不埒な方々がけっこうおられる。席を立つのはいいが、まだ映画を観ている人間のことも考えて行動をしろ!と心の中で叫びつつ(実力行使に出ることもあるが・・・)最後まで観る。それが僕の映画の見方だ。
面白い映画だったら、その間余韻を楽しむし、くそ面白くない駄作だったら怒りに血をたぎらせながら、怒りが収まるのを待つ時間だ。映画の見方を知らない輩が増えている。家でビデオを見ているのとは違うというのが、わからないらしい。できれば、映画は一人で行くのがイイと思う。映画館を出たあとも頭の中身はフィクションの世界に漂い、しばらくの間ここちよい感覚に誘(いざな)ってくれる、そんな映画はやはり劇場で観たい!

映画の歴史も百年を越えたが、日本ではすでにピークは過ぎ去ってしまったのだろうか?僕個人で云えば邦画を劇場で観る機会は、すっかり減ってしまった。松田優作は劇場で観るべき役者であったと思うが・・・。あと北野武の映画も劇場がいいかもしれない。いったいTVドラマの続編やなんかを、映画でやる意味がどこにあるのだろうか。しかし、この現象は日本だけではなくアメリカにも、そういえばあったっけ。「ツインピークス」や「Xファイル」はそんな感じだしなあ。

世紀末映画考と題して3回目まできたが、邦画のことにそろそろふれてみたい。といっても映画狂と呼べるほどの映画を観まくった訳でもない僕が、どこまで踏み込めるかは神のみぞ汁(←誤変換)だ。まあ第1回から読まれてる奇特な方は、十分この連載がいい加減か気づいておられると思うが。
映画を観るといっても、劇場で観るかビデオ(あるいはBSやCS)で観るかの2つに大別されるだろう。本来なら劇場で観てこその映画だと思うが、地方だと配給される映画が限られているだろうし、見逃してしまった映画をレンタルビデオで観るのも仕方ないだろう。昔の名作なんかをビデオで観られるのもいいかもしれない。
じゃあ、なぜ映画館で観るのがいいのかというと、邦画を面白くするためには映画業界に昔のようなパワーをつけないといけないと思うからだ。極端に云うと映画をTVモニターで観た瞬間からそれはビデオ作品と化してしまうのではないか。あのスケール感はやはり大スクリーンでみないとね。

邦画の問題を考えていくと、そこには日本の映画業界の体質やシステムのことにまで及んで行きそうなので、機会があればまた考察したいと思うが、この連載ではあまり深いテーマでやるのは避けることにしておきたい。
「世紀末にはヒーローが必要だ!」といきなり叫んでしまうが、いかがだろうか?ここ何十年も邦画においてヒーローは存在したのだろうか。石原裕次郎や小林旭のような存在は、もはや映画(スクリーン)からは現れないのだろうか。魅力的な存在の俳優が出てこないのも活性化しない要因だろう。とにかく若い俳優や監督でパワーのある奴等が出てこないことには、だめでしょう。スポーツの世界には新人でももの凄い選手が現れたりするが、映画界や芸能界には重鎮と呼ばれるような人々が、逆に足枷になってたりはしてないのだろうか。

とりあえず、昔の映画スター達が映画では喰えないのか、軒並みTVのバラエティー番組に出演しまくっているのはいかがなものか。外国ではどうなのだろう。ここまで節操がないことはないだろう。北野武がいくら海外で賞賛されても、国内では映画だけではまかなえない。ここまで考えて邦画に未来はあるのか?21世紀は来るのか?と思うと、う〜んと唸ってしまわざるをえない。システムを変えるのか、映画人達が変えるのか、はたまたハリウッド映画に侵略しつくされてしまうのか。やはり、マーケットの規模と資金力の問題か。否、それをいえばすべてアメリカに負けてしまうではないか。とかなんとか、邦画のこともたまには真剣に考えてみることにして今回は終わりにしたい。さよなら、さよなら、さよなら。


■今回のMASUDAのおすすめ映画(レンタルビデオ)は、
 「ZAZIE(ザジ)」です!


【増田達也:ますだ たつや】1964年10月生まれ。佛教大学時代は放送局に所属。イラスト・グラフィックデザイナーとして活躍し、今年独立。ノクターン・クラブのコア・メンバーとして主にWebサイトのデザインを担当する。音楽・映画に詳しく、作品に対してイーヴンな評価を与えられるアーティスト。後述の「画面ライダー」の作画担当。

 


「中年ロッカーの逆襲」
               〜ファースト・ライブ編〜           ▼Kei


いつのころからだろう?ギターが気になるようになっていた。主な対象はエレクトリックギターであるが、決してアコースティックギターに興味がないわけではない。僕らの演奏を聴いた人ならわかると思うが、僕のギター奏法はあきらかにエレキギターを弾くスタイルではない。ギターソロらしいギターソロは皆無で、歌の伴奏部分はもちろん、間奏でさえもアルペジオかコードカッティングである。つまり、アコースティックギター一本での弾き語りに毛が生えたようなものなのだ。(いや、この言い方は正確ではない。ギター一本の弾き語りでも、僕のギタープレイよりも表情豊かな人はゴマンといる。)
実は、ぼくはギターを弾くけれど、自分をギタリストだと思ったことは一度もない。そして、ギターを弾き出してから、一度も、自分がギターソロを弾くなどとは考えたことがなかったのだ。ぼくにとっては、自分の頭の中で描いているメロディーをきちんとした曲に仕上げるために何か楽器が必要だったわけで、それがたまたまギターだったということなのだ。それに、ばくがやりたかった音楽は、日本語をロックのサウンドにのっけたもので、自分が歌を作って自分で歌うつもりであったから、曲づくりができる程度の演奏技術で十分だったのだ。ぼくにとって音楽の表現手段は、ギターではなく、歌だったというわけだ。
けれど、ギターは気になっていた。アコースティックもエレクトリックもどちらも好きなのだけれど、エレキギターは特にかっこ良くみえた。それに、カラーバリエーションも豊富だし、トレモロアームとかピックアップとかそういった金属の部品が乗っかっているのもかっこいい。ボディーのシェイプもそれこそ千差万別という感じで、ロックバンドをやって肩にかけて歌を歌うには(別に、ボーカリストがギターを弾けなくてもいいんだ。)、やっぱりエレキだぜ、って思っていた。
ぼくが一番最初に買ったギターは、ヤマハのフォークギター。それから高校のときにグレコのテレキャスターモデルを買った。大学に入ってバンドを始めてからは、トーカイのエレアコを手に入れて弾いていた。けれど、それらは、自分が本当にほしいと思って手に入れたわけじゃなく、値段が手ごろ(今から思えばタダ同然で)だったから買っただけであった。
けれど、二十のときに、自分のバンドからギタリストが脱退し、4人が3人になり、後がまが見つからず自分が弾くしかないという状況に陥ったときに、「よーし、これ一本であとはいらないというようなギターを買うぞ」と決心して買ったのがGAOSS時代に使っていたジャズマスターだった。このギターは今でも気に入って使っている。
大学を卒業してバンドを解散し、和歌山に戻って仕事を始めてからも、たまに楽器屋をのぞいたりすることがあった。ある日、たまたま入った店の天井からつるされていた一本のギターがぼくの目に飛び込んできた。「こんなの、見たことない!」まさに一目ぼれ。明くる日、貯金をはたいて(あまり貯金がなくて人から借金までして)そのギターを買った。ギターの名前は「モズライト・セレブリティー」今でも文句なく一番のお気に入りである。
思うに、ぼくにとって、ギターを手に入れるのは、男が恋をするのと同じである。少年の時は手っ取り早く手に入る女を、「しかも質より量を」とついつい考えてしまう。少し落ち着いてくると、「こいつしかいない」と思える相手を求めようとする。そして、そういう相手を手に入れたなら・・・・・?次は、愛人がほしくなるのである。


【Kei:本名 坂本桂】ブリティッシュ・ロックの大御所「THE WHO」デビューの1964年に生まれる。高校時代「SMO 」/「ストーン・ギャザーズ・ノー・モス」というストーンズ、ピストルズ、フーなどのコピーバンドのVo.を経験後、1982年に「GAOSS」を結成。オリジナル曲を中心に京都の「拾得」「磔々」大阪「エッグプラント」等で演奏活動を行うが1987年に解散。その後10年のブランクを経てBitter・Tasteを結成。

 


 

■編集後記

10月発行をめざしたつもりが、11月になってしまいましたが今回のマイペンライはいかがでしたか?
毎回熱の入ったコラムとロマンたっぷり(どこがやねん)の「画面ライダー」で、ネットサーフィンに一息
ついて頂けたらこれ幸いでございます。
そうそう思い出した。ご意見・ご感想をゲストブックにぜひご記入下さいませ。お待ちしております。
さて今年中に何回発行できますことやら?「継続は力」。頑張りま〜す♪


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■次回の予告:11月末刊予定!?(こうご期待)■
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編集:柏原 誠 kashihara@nocturne-jp.com
    増田達也 masuda@nocturne-jp.com
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