20年

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1995年1月17日。

確か、薄曇りの寒い朝だったように思う。

当時は京都に会社に勤めていたので、

朝6時には起きていた。

5時半ごろ、2階でまどろんでいた。

15分ほどすると、西のほうから

低い、大きな地鳴りのような音が聞こえた。

伊丹に降りる飛行機の音にしては大きく、低い。


すると、

ものすごい縦揺れが来た。

地震・・・・・?


そうしていると、タンスの上の衣装ケースが布団の上に落ちてきた。

ものすごい縦揺れ。

あの時初めて、死ぬことへの恐怖が湧いてきた。

「このタンスが倒れたら、死ぬな・・」


でも、起き上がることすら出来ないほど、揺れた。

できた事といえば、大声でお経をあげていた事ぐらい。


30秒は続いたと思う。

それでも地鳴りは止まなかった。


急いで下に降りて、当時まだ歩く事ができた父と、

母の寝室に行った。「大丈夫か?」



「えらい揺れたな・・」


豊中は兵庫県の東隣。だが、電気もガスも通っていた。

テレビを点け、情報を待つ。

地震が起きたのは分かっている。肝心なのはその規模だ。

情報が錯綜して、まだ第一報は分からない。

10分ほどして、あのNHKの緊急警報放送が流れた。

受信機のスイッチを強制的に入れる、ビーコンのような音。

それでかなりの大災害だと分かった。


外に出てみる。

屋根から半分くらい、瓦が落ちていた。

クルマが1メートルほど、道路にはみ出していた。

それでも出勤時間は迫っているので、とりあえず顔を洗って、

ネクタイを締めて、自転車で駅に向かう。


近所に家の門柱が倒れている。

道路がひび割れていて、通れない。



阪急豊中駅に着いても、全線で運転見合わせ。

しょうがないので、モノレール柴原駅へ行く。

中国縦貫道の看板が折れ曲がって、空を向いている。

柴原駅の歩道橋がはずれ、50センチぐらい、地面が見えていた。


京都に行く経路は無くなったので、会社に電話・・・

まだ7時台で誰も出勤していない。


家に戻る。テレビを見たら、

阪神高速が倒壊しているのが、目に飛び込んできた。


改めてすごい地震が起こったと思った。

まだケガ人とか、どこそこの交通機関が止まってるとかしか

情報が集まっていない・・。


結局会社に連絡がついたのはお昼頃だった。

それまで、固定電話は通話規制でまったくつながらず、

携帯電話も、ようやくつながった感じだった。


続々と伝えられる被害状況。

部屋の中も、本棚が倒れてガラスが割れた。

1階はそれほど被害はなかった。

だが、隣の町では倒壊した家が何件かあった。


幸いにも断層がはずれていたようだ。



阪神大震災。

20年前の5時46分からのほぼ24時間の記憶だけが、

鮮明に残っている。

大災害の映像に涙した記憶。

何もできなかったもどかしさ。


あの瞬間、自分のい人生観までも変えてしまった大災害は、

果たして人を強くしたのか、生きることうぃ萎えさせてしまったのか、

それはまだ、分からない。


2011の東日本でも思ったことだが、

記憶はやがて、薄れてゆく。

何を教訓にして生きていけばいいのだろう、と思う。



ひとつ言えることは、

その瞬間まで、一生懸命生きることなのかも知れぬ。

あれから20年。

自分は一生懸命に生きているだろうか。

あの時、生死の境にいたことを、忘れてはいないだろうか。


生き方が緩くなってはいないか。

そんな戒めを教えてくれるのが、この日なのかも知れない。


改めて、あの日寂光へと旅立った、

6000余名の命に、合掌・・・・

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このページは、911carrera_kero4が2015年1月17日 09:27に書いたブログ記事です。

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