25years

| コメント(0) | トラックバック(0)
風呂に入ってて、急に思いついたので書くことにしよう。

それは、現在の会社の前身となる組織「ノクターン・クラブ」について。
自身のHPにも"Since1987"と記しているように、ノクターン・クラブが始まったのは1987年。
自分が就職して2年目のことである。
今回は自分のクリエイティブの源流である、ノクターン・クラブがどうやって始まったのかを
つらつらと書いてみる事にする。

大学4回生の冬になっても就職が決まらずにいた頃、内定していた某在阪ディーラーを断って
アルバイト扱いで入ったのは、KBS京都の子会社「KBSエンタープライズ」という会社だった。
放送局の関連会社になんとか潜り込めた!と思っていたのつかの間、気がつけば配属は営業の部署。
テレビの仕事がしたくて入ったのに、最初の所属は「システム営業部」という、要するに
業務用の映像機器をシステムで売る部署だった。

当時の上司は今では独立して、音響・映像システム機器の販売会社の会長をしておられる、大学でも
よくお会いする、大越さんだ。よくよく考えてみれば、佛大に出入りしていた大越さん経由で自分の
採用が決まったようなもので、後で考えると、自分がシステム営業に行くのはこの段階で出来レースだったのだ。

そんなこともつゆ知らず、世間知らずでクソ生意気な当時の自分は、やりたい仕事とはぜんぜん違う職種に戸惑い、
現場では職人に意味も無く怒られ、会社に帰れば机すらない最初の1年?1985年を過ごした。この当時よく大越さんに
逆らったなぁ。本当に迷惑をかけてしまい、今でも大反省している。

翌年の1986年、社員として正式に辞令を受け、今度はBGM営業部に異動した。ここはホテルやスーパーなんかで再生する、
テープ式のBGMをレンタルする部署。

結局ここで営業マンとしての基礎を叩きこまれ、少しずつ社会人としての落ち着きを見に付けていったのである。
そうこうして仕事に慣れてきているウチに、どうにも自分の置かれた立場が、本当に自分がありたいと思った立場なのか、
自問自答を繰り返すことになった。

滋賀県北部を回る営業エリアなので、会社にいる時よりも、クルマで一人の時のほうがはるかに長い。
広大な近江平野と、どこまでも広がる田んぼや畑に囲まれた農道を、時には法定速度を超えるスピードでブッ飛ばし、
何かモヤモヤするものを抱えた毎日を送っていたのだった。ちょうど高校時代の同級生・深川君が結婚のためバンドを辞め、
一緒にバンドやろーぜなんて盛り上がってた頃だ。意味の無い怒りと、無尽蔵にあるかと思われる時間のおかげで、
クリエイティブな思考はどんどん膨らみ、逆に営業マンという自分の現在の立場とのギャップに、ますます怒りを覚える
毎日であった。当時を知る人たちには、「あの時、めっちゃ怖い顔してた」と、よく言われる。お恥ずかしい限りである・・・。


そんな時、学生時代に可愛がってた後輩たちが就職し、久しぶりに一杯やる機会があった。
そこで出たハナシが、「学生時代にできなかったものを作ってみたい」だった。

学生時代に作れなかったもの?それは映像による作品である。

ビデオカメラがそろそろ普及しようかという頃、編集作業なんてものは業務用の機械でないと不可能な頃に、
SONYからエディット・ギアなるシリーズが発売された。

その機器がなかなかの魅力だった。2台でプリロール編集が可能になるSL-HF3000や、イメージスキャナで文字を
取り込めるテロッパー、カラーコレクタとか周辺機器も充実しだした頃である。

撮影や編集のスキルは全く無い。でも何か作りたいという情熱だけで、当時取引先だった関西SONYから、卸し価格で
これらの機器を買った。社員販売なので、催促なしのボーナス不均等払いである(笑)。

こうして見よう見まねで、当時の思いのすべてを記録したビデオ作品の名が
当時大好きだったARBのセカンドアルバム"BAD NEWS"に収録されていた「ノクターン・クラブ」という、楽曲のタイトルだったのである。

この作品、ほぼ7カ月ほどの時間をかけ、オムニバスの展開で構成されていた。今では見ることさえ恥ずかしい位の出来で、
撮影の基礎も編集の基礎も、殆ど入っていない、恐らく技術的にも作品的にも全く評価されないものだろうと思う。

だけど、この当時の勢いを超えることは、未だなかなか出来ない。職務著作という性格もあるが、
自分の為に作ったものと、お金をもらって作るものとは、基本的なパートがまったく異なるのである。

この作品を皮切りに、映像に対する興味はどんどん膨らんでいった。

そうだ。自分が放送の世界に行きたいと思ったのは、高校時代からで、
メディア研究のゼミナールがある佛大に入ったのも、最終的にはこの仕事に就きたかったからだという事を思い出した。

そこからはシステム営業部で教え込まれた事が役に立った。半強制的に受けさせられたシステムの研修のおかげで、
システム機器の設置も配線や組み付けも、殆ど自分でできるようになっていたのだった。あの時もっと貪欲に、
数年後生きてくるスキルだと分かっていれば、もっと勉強したのにと思う。

そこからしばらくの間、映像の知識を独学で学び、会社にはナイショの編集のアルバイトなんぞを引き受けて腕を磨き、しまいには
当時住んでいた西院のマンションが埋まるほどの機材を、またまた借金して入手し、本格的なインディーズ撮影を試みたのである。

振り返ってみれば、当時会社を辞めた退職金とほぼ同額になってたであろうか。インターネットも何もない時代の90年代前半、
資料はサンレコマガジンとビデオサロンだった。あとは会社で情報を集め、親会社の技術スタッフに教えを乞うた。

平成9年、13年在籍していたKBS京都プロジェクトを退職した。
その当時は、完全にこの世界から足を洗って、しばらくは親父の介護に専念するつもりだった。
ところが辞めて早々に元々担当していた「和泉修のひまじん倶楽部」の構成に入ることになり、暫くすると会社時代に担当していた
母校・佛教大学の仕事がオーバーフローして戻ってしまい、結局はなんだかんだでフリーの制作マンになったのであった。
商売をするのだから、かねてより看板として掲げていたノクターン・クラブの名が、そのまま屋号みたいになってしまった。

映像の仕事が本格化したのは、実はこの後、2003年である。
そう、ノクターン・クラブの持っていた資産をすべて移し替え、手持ち資金と共同創立者である吉田氏の力、そして昔から
お世話になっているY氏の協力を得て、有限会社トライマックスは創立に至ったのである。

ノクターン・クラブは、今のところ名前だけが残り、自分の個人活動がメーンのようになっている。
しかし、この集まりを立ち上げるに誓った事は、やはり「モノづくり」である。そういった意味ではトライマックスとノクターンは
密接につながっていると言っても過言では無い。理想はあの当時のように、純粋にコンテンツに向き合うことだ。思考錯誤の中で
自分たちはひとつの基準を得たように思う。

25歳の時に誓った想いは、25年を経た今でも、衰えることなく燃え盛っているのだ・・・。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nocturne-jp.com/mt/mt-tb.cgi/49

コメントする

ウェブページ

※この時計の時刻は、あんたはんのパソコンのもんどす。必ずしも正確な時間ではあらしまへん。

このブログ記事について

このページは、911carrera_kero4が2012年10月14日 23:24に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「そろそろかなあ」です。

次のブログ記事は「判断材料」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。