日々雑感

新型に移行しましたっ。

どこのどなたが見て頂いているか分からないのですが、当ブログは新型に移行しました。
http://www.nocturne-jp.com/diarypro/diary.cgi

自分のサイトの統合したやつです。
最近多忙により、あまり書き込みしてませんが・・
よろしくっす。

結婚式

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正直なところ、自分がこういう日を迎えられるということをなかなかイメージできなかった。
10年ほど前に会社を辞めて独立した時も、
3年前まで父の介護をしていた時も、
心の中心にはいつも結婚したいという願望があったにも関わらず、
その事をただひたすら隠して、目の前の現実と闘っていたような気がする。
しかし、心に生えた"棘"もいつかは先が鈍くなるもので、
それは年齢と共に経験を重ねてきたからかも知れないし、
多くの人に会ってきたからかも知れない。

今回の結婚式は親戚だけを招いた小さなイベントだったが、それは僕の今まで関わったどんな大きな
イベントをも凌駕するほどの感動と感激を与えたものであった。

それは、自分がある種頑なに守ってきた、心の中の氷山が溶けたような感覚・・・。
多くの人に守られて、愛されて、信頼されて、期待されてきて生きてきたのだという事を
今更ながら深く心に刻んだ、イベントであった。

父の告別式でさえ堪えた涙が、
堰を切ったように溢れ出た。
それは心に留めていた何かとの訣別だったかも知れない。
これからは、人生を共に歩む人がいる。
おまえ、たったひとりじゃないんだと、
親父が虚空から微笑んでくれたのだった。

GW

予定では府立体育館で黒鷲旗全日本選抜バレーの試合撮影をしているこの2日間だが、ブレイザーズが3日豊田合成に敗れたため休みとなった。
よくよく考えたら、ゴールデンウィークなんかまともに休んだ記憶が無い。いつも何かしら仕事があって、何か用事をしていたように思う。
4日に決算の打ち合わせがあった以外は完全なプライベート。といっても来週にはいよいよ結婚式を迎える。5費にはゲストで来て頂く方々と打ち合わせをして、準備だけは怠りのないようにと・・といっても直前でアレ忘れたコレ忘れたというのが、イベントの際たるもんなのだが・・・

というわけでかなりのんびりできた3日間だが、昨日はエキスポランドでどえらい事故が起きた。なんとジェットコースターで人が死ぬという前代未聞の事故である。自宅からクルマで10分とかからない遊園地で起きた大惨事に、なんか暗い気持ちになってしまった。

新年度

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新年度がやってきた。いろんな意味で忙しい1年になりそうだ。5月には結婚式が控えているけど、仕事は相変わらず怒涛の勢いでやってきている。
充実していますかと聞かれたら、充実し過ぎですと答えている。正直こんな濃厚な毎日が送れるとは思っていなかった。44歳という年齢のせいか、我々の時代がいちばんのメインストリームになりつつあるからなのだろう。

きのう投票に行った。体育館の前にはこの時期らしく桜が満開だった。まだ蕾のままの桜もいくつかあったけど、それにしても桜は日本人の精神にとても合っていて、見ていて心が満たされるのである。

満開のときの艶やかさ、華やかさと、
散り往くときの潔さが、古来の日本人の魂の
琴線に触れるように、趣とモノの哀れがなんとも涼しげなのである。

というか、花を愛でるなんてのは
よっぽど心にゆとりがある証拠やないかと思う。
ちょっと前までは、「花よりダンゴ」の口やったからなぁ・・。

ついこの前、仕事で卒業式を撮ることがあって、
会場でスタンバイしていた。
大学の卒業式といえば、もう既にオトナばかりの
セレモニーなので、まぁ整然というか、淡々と進行するものと思っていた。

ところが今年は違っていた。
会場がどことなく騒がしい。
真っ暗の場内を眺めると、卒業生がせっせと携帯を
触っている。
声を出しているワケではない。
ザワザワの原因は、観客席に陣取っている「親」である。
ひどい親になると、「○○ちゃあ〜ん」なんて
客席に向かって叫ぶ始末。
モラルもへったくれも、何もない親。
こんな親を持った子供が、大学から社会に出てゆく。
先行き不安とは、このことである。

オトナになった子供の卒業式をのこのこ見に来ること自体、自分が大学生だった時代には考えられないことである。
(もちろん我が両親は大学の入学式も卒業式も来なかったし、最近になるまで大学がどこにあるかもあんまり分かってなかった)
そりゃあ、学費を出してやってるのだから、自分の子供が卒業するのを見届けるのも
親の役目かも知れない。
しかしどうにも納得がいかぬ。果たしてそれは子供のためになるのかと・・・・

近年の少子化の影響なのか、「過保護」な子供が多すぎるように見受けられる。先日一緒に仕事した同年代の女性タレントも、
特に50歳代の親の過保護ぶりは聞いていてハラがたつほどですよと教えてくれた。

50歳代・・・団塊の世代より少し後の、ノンポリ時代に生まれた人たちだ。ということはその人たちの親の世代は、かなり厳しい「昭和ヒトケタ」だったと思う。厳しく育てられたが故に、自分の子供たちには優しく接してあげようということか・・・

しかしその「優しさ」は果たして本当の優しさなのだろうかと思う。友達のような親子、兄弟のような親子は果たして本当の意味での親子関係が構築できるのだろうか?

究極を言えば「怒れない親」と「怒られたことのない子供」がこの世に蔓延するだけではないか。ただ他人に厳しいだけの自分勝手な親と、他人を思いやる事など教えてもらわなかった、単なる利己的な子供を作り出すだけではないのか・・・・。

親は木の上に立って見ると書く。
どの親も、辛抱して見ることができない。
我が子が可愛いのは、誰だって同じ。
しかしどのバカ親も、「自分の子だけは違う」と勘違いする。
これからの教育、子供だけでなく親を教えないといけないとは、大変なことである。
本当の優しさを知らないで育った子供たちが、どうして平和を構築できるのか・・・
それを考えると、ちょっと薄ら寒い感じがするのだ。

ドリーム・ガールズ

エンドロールが流れる前、ひとつの字幕が出てくる。
「フローレンス・バラードに捧ぐ」

81年にブロードウェイて初上演されたミュージカルが原作の「ドリーム・ガールズ」を観た。
物語の全編にわたって流れるモータウン・サウンドは
世界中が上昇志向にあった70年代を蘇らせ、
そしてアメリカの持つ、構造的な人種の壁を乗り越えようとするドラマを描いていた。

この物語、早い話がダイアナ(大花じゃないよ)・ロス率いるザ・シュープリームスの成功物語なのだが、ミュージカルでは成功の過程でダイアナとは逆に転落の人生を送り、33歳でこの世を去ったフローレンス・バラードの話がベースになっている。
フローレンス・バラードはオスカーに輝いた新人女優のジェニファー・ハドソンが演じたのだが、あくまでも主役はビヨンセが演じるダイアナ・ロス(劇中はディーナ)である。助演が主演を食うほどのすごい演技(というより歌唱力)が目を引いたが、やはり構成がすごい良くできているなと思った。
ミュージカルがベースとはいえ、大切なセリフを歌で表現するってのは、なかなか芝居としては難しいと思うのだけど、そこがものすごく自然にできていて、ミュージカルに興味のない人でも入っていけると思うし、何より音楽好きにはたまらないものがある。
感動したのはラストシーン。ビヨンセ演じるディーナが解散コンサートでかつての仲間エフィ(ジェニファー)を招き入れるシーンだ。ここで様々な人間ドラマが完結してゆくのだが、不覚にもウルッとしてしまった。現実はフローレンス・バラードはこのシチュエーションでは存在せず、悲運のアーティストとして伝説になった。

様々な記事を読むと、ダイアナ・ロスはミュージカルが発表された当時、意図的にコメントを避けていたという。今やミュージック・シーンにもその姿を現さなくなったダイアナ・ロス。彼女はこの映画を見て何を思っただろう。70年代を席巻したスーパースターも、やはり時代に翻弄されていたのである。

まぁ、そんな評論家みたいな事はさておき、この映画いいです。久々に爽やかな感動が味わえた。DVDを買うぞと我が妻は決意を新たにしたのでありました。

合格♪

アップロードファイル 97KB晴れ

↓の検定試験、見事合格〜♪
ひさびさにこの手の試験で合格できて、なんとなく嬉しいっす。
さて次は上級試験です。
いちおう目標は上級の上の「エキスパート」です。
がんばろーぉぉぉ

メディアの驕り

晴れ

今やメディアはなんでもありの世界になっていて、
捏造なんてものは、日常茶飯事のようにあちこちの放送局で行われている、と考えたほうがよい。
少し前、某国営局は昼の生ワイドを全国ロケで放送してたが、地方では大ブーイングだったらしい。
生放送といっても某国営は台本がある「予定調和」型の放送で、放送の始まる1週間前から現地に入って、それこそ「映りの悪いモノ」を排除したりするのだそうだ。あげくの果てにはポストの位置をズラしたり、看板を外したり、かなり傲慢な態度だったと聞く。

その影響かその生放送はスタジオで展開するものに変わったけど、ポストの位置を勝手に変えたりすることと、納豆がダイエットに効くといって実験結果をねじ曲げることは本質的には変わらないワケで、
「放送」という名のもとに、ケーブルテレビからハイビジョン放送に至るまで、事の大小はあれど番組に都合の良い事実だけを選んで送るのが番組だということを視聴者は理解しなければならないだろう。

放送の仕事に関わるようになって結構な月日が経つが、放送に携わる側の人間に、こうした情報が操作できる特権を持っているかのような意識が根付いているのも、紛れも無い事実だ。放送現場はあらゆる情報が集まり、そして無造作に積まれているところだ。その情報も送る側の脚色と受け取る側の偏見とで、とんでもない事実に塗り替えられてゆく。
事実が事実の顔をしなくなるというワケだ。

そして送り手はこういう行為をむしろ面白がる傾向にある。受け手もそういう情報を期待する。ある種ギブ&テイクが成立しているワケだ。それも極めて低俗な・・。